Youth.Kのブログ

誇りあふれる空間創造

小松(石川)は歌舞伎の街

time 2014/11/16

県外に出てから故郷の特徴を初めて感じる。
スキー場が車で30分ですごく贅沢。小松基地航空祭とかすごいことやってんだな。
普通に食べてたアルバのカレー「カレーの市民アルバ」とか、全国的には金沢カレーとか言われてるし。

てか小松市はココ!

 

小松のゆるキャラが「かぶっきー」になるほど、なんで小松市は歌舞伎なの?
子どものころ、地域の文化的な背景なんて興味ない。
調べてみると

歌舞伎で小松が有名な理由は大きく2つ

  1. 安宅の関
  2. 曳山子供歌舞伎歌

勧進帳(安宅の関)

安宅の関・勧進帳

歌舞伎の十八番「勧進帳」の舞台として知られている。

もともと「勧進帳」とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物のこと。

 

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。

義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。 辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。これに憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする(ノット)。

感心した富樫は先の弁慶の言葉を思い出し、勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。 なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。

富樫は通行を許すが、部下の一人が強力(ごうりき、義経)に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、その疑いを晴らす(初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後になり、弁慶の嘘を見破りながらその心情を思い騙された振りをする好漢、として演じられるようになった。)。

危機を脱出した義経は弁慶の機転を褒めるが、弁慶はいかに主君の命を助けるためとは言え無礼を働いたことを涙ながらに詫びる。それに対して義経は優しく弁慶の手を取り、共に平家を追った戦の物語に思いを馳せる。そこへ富樫が現れ、先の非礼を詫びて酒を勧める。それに応じて、弁慶は酒を飲み、舞を披露する(延年の舞)。舞いながら義経らを逃がした弁慶は、笈を背負って富樫に目礼。主君の後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

 

 

 

曳山子供歌舞伎

加賀藩三代藩主・前田利常にゆかりがあるお旅まつりの奉納神事として250年以上もの間、毎年5月に上演されている。

寛永17(1640)年、加賀藩三代藩主・前田利常公が隠居して小松城に入ってから、小松の町が発展していきます。

そして、莵橋神社と本折日吉神社の春祭りである「お旅まつり」に曳山芝居を奉納しよう、ということになったのが、江戸時代の明和3年(1766年)だといわれています。

 

最初に高楼式の曳山を作り上げたのが松任町、それが安永6(1777)年。

これをみた他の町人たちが競うようにして、寛政10(1798)年までに龍助町、寺町、八日市町、大文字町、京町、中町、松任町、西町と合わせて8基の高楼式の曳山がそろいました。

さらに10年ほど遅れて東町が、さらに材木町が加わり10基に。

 

当初役者は、町の男の子たちだった。戦時中、芸妓さんたちが演じており、戦後になって町の女の子たちが演じることになり、現在も基本は「曵山役者は女の子」という全国的にも珍しいと言われている。

小松の子供歌舞伎は、近江長浜、武蔵秩父とともに「日本三大子供歌舞伎」です。

 

 

 

また、小松市では伝統芸能の継承を目的に市内の10の中学校が持ち回りで、毎年秋に「勧進帳」を上演している。

役者はもちろん。三味線も、太鼓も笛も長唄も中学生が担当している。

 

 

小松駅の駅前に平成25年5月に「こまつ曳山交流館みよっさ」がオープンし、「歌舞伎のまち小松」としてまちの魅力を伝えています。

 

勧進帳を見てみるなら

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筆者



中小支援のデジタルマーケティング屋
石川県小松市生まれ。 子どもの頃は、サッカーや野球をして過ごすスポーツ少年。 大学時代は、つくばの地で、野球をしたりヒッチハイクしたり小学生と100㎞歩いたりしていた。




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